愛の自由とその擁護―金魚屋・社虫太郎両氏のツイートから―

 金魚屋氏のペドフィル批判ツイートについて社中太郎氏が引用リツイートでいくつかツイートをしている。それについて、そして人間の愛の自由とその擁護について書きたい。

 まずは金魚屋氏の当該ツイートから文字起こしする。以下。

 


 「ロリコンもLGBTのように尊重されるべきだ」と言う奴は山ほどいるが、「私の娘がゲームソフトを餌に大人に玩具にされたとしても、ロリコンは『性的マイノリティ』だから許す」という奴は一人もいないでしょ。つまり非モテで自分が親になる事の想像ができない人間が、幸せな他人の安寧を侵害したいだけ。


 このツイートには次のような論点があるように思われる。
 第一は「自分の娘がペドフィルによる性的暴行の被害に遭った場合にそれを許す親はいない」という想定は果たして真であるだろうかというものである。
 とはいえこれについては、「上のような不法をはたらいた人間を被害者の親は許すことがない」というのはかなり蓋然性の高いことだろうとはいえる。笑って許す親がいればかなり特殊な、珍しいケースに属するだろう。そのような親にはむしろ深刻な育児放棄の疑いが向けられるかもしれない。論証するまでもない自明の前提として掲げられているだけに突っかかりたくなってしまっている自分がいるのかもしれなかった。
 第二は「自分の娘がペドフィルによる性的暴行の被害に遭った場合にそれを許す」人間を「非モテ」であるとする金魚屋氏の認識ははたして真だろうかという問題である。このことについて金魚屋氏はリプライに対するツイートで以下のように述べている。

 

 (重要なのはモテ非モテでなく人権意識の問題であるというリプライに対して)重要なのは人権意識であることは重々承知ですが、大多数の利己的な人間の抱いている「自分にさえ優しければいい世界」という意識から「隣にいる者にも優しい世界」「ウチのチビにも優しい世界」「誰にとっても優しい世界」と欲求が変わっていく事で人は「人権」というものを意識していくのでは。
 私自身「自分にさえ優しければいい世界」という状態からスタートしました。次の「隣にいる者にも優しい世界」もまだ利己的な欲求ですが、私みたいな人間にも人権というものを意識させてくれた最初のきっかけになりました。その段階がなくても人権を考えられる人こそが本当に正しい事はわかります。
 あの文章に「貧する者の全てが鈍している」というニュアンスは入れたつもりはありませんでした。「人権を考える」きっかけとなる「欲求」について書いたつもりです。


 この引用を見る限り、金魚屋氏にとっても最初の引用は「ロリコン(ペドフィル)の尊重を主張する人間は皆非モテであり、彼らは平均的な人間の得られるような家庭を持つことのできない劣等であるがために認知が歪んでいる」という趣旨のものではなかったということになる。存在命題「然々がある」や全称命題「何某は全て然々である」の区分をこれといって気にすることなく、いわば「一般論」として書いたのであろう。別のツイートで自らの言葉足らずについて言及してもいる。


 金魚屋氏の一連のツイートは「一般論」として書かれたものである。『大多数の利己的な人間の抱いている「自分にさえ優しければいい世界」という意識から「隣にいる者にも優しい世界」「ウチのチビにも優しい世界」「誰にとっても優しい世界」と欲求が変わっていく』という人権意識の拡大の過程は、甚だ近視眼的な物の見方であって、理性の普遍的立法すなわち「人間は皆基本的人権を持つ」とかいった個別を離れた抽象的概念による把握と大多数の人間がいかに遠いかということを示してもいるのだが、確かにこの論法では「非モテ」、親密な家族のいない人間は利己的段階から博愛的段階へ人権意識を拡大させていくことは原理的に不可能である。しかし金魚屋氏自身言うように人権意識の拡大の諸段階を踏むことなくても普遍的に人間の権利について思考する方法はあるのだから、ある属性によって「然々の人間にはこれは不可能である/これが不可能な人間は然々である」と言うのは、正確さを欠くということになる。
(金魚屋氏は全称命題を使いがちである。「判断力が備わっていない子供に対しての思いの表明は必ず「虐待願望の表明」を意味します。」と青識亜論氏のリプライに対する引用リツイート2018/11/06 01:33で記している)

 

 次に、冒頭のツイートを引用リツイートした社虫太郎氏の一連のツイートを文字起こし、引用していきたい。


 こちらに噛みついているリプ群を見ていて、はたと気づいた。
 彼らがペドフィルと同性愛を並列視してしまう理由って、性的指向/嗜好というものについて「叶わない(実現しない)ことがデフォ」という根強いバイアスを抱いているからじゃないかなぁ、と。
 つまり彼らの主観世界じゃ同性愛とは、同性愛者同士の相思相愛的なものというより、自分たちを含むノンケ男性に対して一方的に性的なまなざしを向けるもの…という風に認知されているのでは?
 そういう風に捉えているから、同性愛はそもそも加害的→ペドファイルも同じ、となるのではないかと。
 で、彼らのこうした認知バイアスの背景を成すのは、そもそも彼ら(の大半は女性を指向する異性愛男性だろう)の女性に対する性的眼差し自体が概して叶わない(実現しない)ものであり、ひいては加害的であるという無意識の自覚だろう。
 つまりペドと同性愛の並列視は「非モテバイアス」なのだ。
 そもそも異性愛であれ同性愛であれ、その性的まなざしが親密圏(=相思相愛圏)で飲む発露されている限り加害的でないのは自明で、それを公共圏で無暗に発露するから加害的(セクハラや性暴力)になるだけ。
 対してペドフィルは親密圏=相思相愛圏の想定自体が加害的という根本的な違いがある。
 しかし彼らは元より親密圏と公共圏の区別が炸裂している(あるいは非モテ世界に生きているがゆえに親密圏=相思相愛圏を欠き、その代わりに性的まなざしを公共圏に持ち込んでいる)ので、おそらくこうした違いが上手く飲み込めないのだろうと推測する。
 ちなみにここで言う「相思相愛圏」とは、あくまで両者の合意に基づく加害的でない性的関係という意味であって、必ずしも狭義のロマンティックラブを意味しません。わかる人には自明なことですが、念のため注釈。


 社虫太郎氏は性志向の「しこう」の字を「指向」と書いているが原文のまま引用した。この文章の論点について順にあげていこう。
 同性愛は加害的かという問題について……社虫太郎氏自身このテーゼは論敵の理論構成を推測する段階で持ち出しているにすぎない。同性愛が必ずしも加害的ではない(つまりその加害性はあっても異性愛と同じような加害性である)ということは社虫太郎氏の論調から読み取れないこともないだろう。
 親密圏と公共圏の問題について……これは自分の思考にとって大変に重要かつ新しい発見だった。自分はあくまで多様な性のありかたの一つとしてのみペドフィルをみており、その小児性愛が現実に展開されるにあたってどのような形態をとるかについての分析はなおざりになっていた。
 上に見たように同性愛者は各々が他の同性愛者を探し、そのうえで親密になった者同士がたとえば住まいを共有したり一対一の排他的な性関係を結んだりすることが広く行われてきた。そうした行為を罰する法制はたとえばイギリスでは20世紀に入っても有効であり、前世紀後半に入ってようやっと法的罰則が消滅している。こうした法制の存在は、罰する対象になりうる程度には同性愛者が多く親密な関係にあったか、あるいは同性愛的行為が広まっていたことを示唆する。親密圏における性愛のありようについてはここまでで示した。
 対して社虫太郎氏が挙げている「ノンケに対する同性愛者の性的まなざし」は、向けられる側は同性への性志向を持たず、しかるに他方はそれを持つ。これを現実に実行に移せば「ノンケ」は大方拒否の姿勢を示すだろうし、強いて行為に及べば強制性交等罪が適用されるに違いない。これはいわば公共圏における……ちょうど社虫太郎氏は「相思相愛圏」という使い勝手のいい表現を用いているので、これを借用すれば……「相思相愛圏」の外における性愛のありようである。
 同性愛にあっては親密圏における性愛関係が成立しえたことは上の通りである。ではペドフィル(成年)と少年(一般にいう「少女」を含む語としてここでは用いる)ないし児童の二者関係にあって親密圏はうまれうるだろうか、それともうまれえないだろうか?
 これには本来長い検討が必要になる。しかし20世紀半ば以降の工業先進国にあっては特にそうだが、児童との結婚に関しては否定的な論調が多く、社会常識にさえなっている。インドやアフリカ大陸などでは若い女性と年老いた男性の間で婚姻の契約が交わされることが多くあるが、工業先進国の人間は強くこれを非難している次第である。この文章を読んでいるのは多く日本人だろうが、日本の社会においても、今や児童と呼べる年齢の子どもとの結婚は「非常識」なものになっているといえるだろう。親密圏というものを婚姻関係を結んだ二者を中心にはぐくまれるものとするならば、ペドフィルとその性愛の対象である児童の間に親密圏が発生すると考えることはかなり難しい。(社虫太郎氏は狭義のロマンチックラブ以外すなわち婚外恋愛についても同様としているが、ここでは文脈に合わせてやや改変させていただいている)
 ところで、非モテ云々については社虫太郎氏は金魚屋氏の冒頭のツイートにみられうるような「非モテ」属性に対する全称命題的な見方をとってしまっており、ここは残念でもある。同時に社虫太郎氏は同性愛と小児性愛の並列視を「非モテバイアス」とし、親密圏を築くことのできないという決定的な劣性を抱えた人間にのみ特有の過誤として取り扱っている。

 

 金魚屋氏にせよ社虫太郎氏にせよ「成年と児童の間に親密圏が発生することは著しく暴力的である」という点で意見は一致しているように思われる。これは正確には「親密圏が発生するような状況が成年と児童の間に生まれる事」すなわち成年と児童が性的関係を結ぶ事と言える。そしてこのことの加害性は決定的であり、同性愛者同士の親密圏と同様に成年と児童が親密圏を構成するのなら、そこには「騙し」がある……。
 しかしここで強い不安を感じないではいられない。それは、理論的骨子をいかに形成するにせよ、ロリータコンプレックスないしペドフィルに対する強い否定的言説は、結局のところ年少の異性に対する性愛を差別するイデオロギーを無批判に再生産することになりはしまいか? という不安である。われわれは特定の性愛をとくべつにさげすんで扱えるほどできた人間だろうか。その性愛のありようが「もし」実現されたならば「不可避に」人間を害するという理屈で小児性愛者を絶対的に危険人物として取り扱うのは、「同性愛を認めれば風紀が乱れ出生率が低下し国を亡ぼすことになる」という「社会的害悪」をもって同性愛者の諸権利を否定する保守的言説とどこまで違っており、どこまで同じなのか。そこを等閑視して「我々の価値観に合致しない性愛の様態は虐待的であり、野蛮である」と判断するのは、かつての帝国主義と同じ過ちを繰り返すことにはならないのか。


 本稿は愛の自由と擁護に関する手短な論考である。だから筆者は愛というもの一般についてまずすべてを平等に存在権利のあるものとして認めたい。いかなる形をとっていようと、人間はそれらをどんな理屈で迫害しようとするかわからないから、ひとまずはすべてを同じ地位に置く。そのうえで現実存在するにあたっての諸条件にもとづいて勘案していくが、基本はあらゆる愛の形態の生存権を平等にみとめる立場である。
 前世紀に入って尚世界帝国イギリスでは同性愛者に対する極刑が下されていたし、戦後も「性同一性障害」に対する無理解は根強く、人間の半分を古い因襲の桎梏から解放せんと西側世界で持ち上がったフェミニズムウーマンリブの時代にあってさえ「男女のセックスの差異と思われるものは実は存在せず、生後の育てられ方、ジェンダーに十全に由来するものである」というドクサから不幸な人体実験が行われ、被験者は後に拳銃自殺したとかしないとかいわれている。偏狭な「人種的」優越意識に端緒の一を持つ反ユダヤのキャンペーンが極まったドイツでは六百万人が虐殺され、イスラエルは「大イスラエル主義」なる拡大思想に毒された人間を放置してパレスチナ人の居住地を蚕食せしめ、アウシュヴィッツ収容所の十四倍の期間にわたって静かに虐殺している。人間のなまの思いなしがどれほど信用ならないかということを嫌というほど人間は思い知ってきたはずである。ペドフィルに関する思いなしが今度こそは正しいと思うか、いや今度もどうせ間違っているのだと思うか、少なくとも妥当であるのは後者であるに相違ない。
 もちろんこれは個別具体的に必要な諸条件を無視したまったく観念的な、空疎な議論であることは否めない(親密圏と公共圏における愛の実現について筆者はこれまで考えたこともなかった)。友人エヌもペドフィルについては「必ず人間を害する様態であるから」と冷淡であったが、彼には上のような考察が既にあったのであろう。
 ペドフィルは愛の現実存在にあたって多くの場合著しく他を害する性質を持っていることは事実であるに違いない。しかし筆者にとってみれば、ペドフィルに対して激烈な批判を加える人間は、少なからず、――社虫太郎氏の言葉を借りれば――性的指向/嗜好というものについて「叶う(実現する)ことがデフォ」という根強いバイアスを抱いている》ようにみえるのである。人間がペドフィルであるということ、小児性愛という気質が人間の内にあること、をそうまでして、いわゆる「ヒステリック」なふうに攻撃しなくてもいいではないか、などと甘々に考えてしまう。このあたり金魚屋・社虫太郎両氏の言う「非モテ」的な欠如した想像力の賜物であるのかもしれないが、詳しく話すことはしない。ただ自分はそもそも人間の負の感情や衝動に対して積極的価値を認めないというだけである。憎悪、怒り、悲しみ、不快感……それら《自然なものども》が過去にどれほど人間を傷付けてきたことだろうか。それを思うと、やはり、自然な悪感情の全面的な擁護はできそうにない。これもまた一つのドクサである。

 

 借金玉氏が金魚屋氏のツイートをリツイートしつつ激烈な批判をくわえているが、ここでは扱わない。

 

 

追記:金魚屋氏が問題としているのは、ペドフィリアそれ自体よりも、むしろペドフィルによる欲望の表象の方法についてのものであるように思われる。上の記事で自分は一貫して観念的問題をのみ扱ってきたつもりである。言説表象の理論……自分はこれに全く疎い、日を改め、稿を改めしなければこの問題について深入りして論じる事は出来ない。

 金魚屋氏はペドフィルによる欲望の発露について、「それ自体が暴力」と厳しく批判している。その激烈さに対して借金玉氏も強く論駁を加えている。観念的な領域においてあらゆる愛の形態の存在をみとめる筆者も、このような表象に関してどのように扱って然るべきか、判断するのは難しいところである。

 金魚屋氏はペドフィリアの欲望の発露、その表象を厳しく断罪する。しかしその表象がまったくない状態、欲望が完全にペドフィル個人の内面にとどめられている場合、どうであろうか。内心の自由は重要な基本的人権の一であるのみならず、音やにおいや視覚的情報から一切判別できない「脳内にある観念」について、それを認識できない以上、人間にはそれを罰することも出来ないはずである。事実氏のツイート中でも表象されざる欲望についてはこれといってコメントを付していなかったように思う。内心の、観念的な領域における精神の完全なる自由。これは筆者と氏が共に同意しうる相互のドクサの一地点であるように思われる。