覚え書(求・メディア表象理論の種本)

 もう去年のことになるが小児性愛についてブログで書いた。その後インターネットで見つけたり色々した話題の中で面白いものがあったのでそれについて書く。

 

 これはツイッターでもうふた月も前に目にしたもので、出典は今や電子の海の彼方に消えてしまって探し出すことができないものだが、重要な指摘がそこではなされていた。

 小児性愛性的少数者というカテゴリーに含められ、このカテゴリーには長年制度上の差別の対象であった同性愛も含まれる。そこで、同性愛者への差別的な嫌悪の感情を糾弾する動きが起こる中、小児性愛者への差別的な嫌悪の感情についても同様に非難されるべきではないかという提言が可能となるだろう(性的少数者である同性愛者に対してなされるべき事柄が、同じ性的少数者である小児性愛者に対してなされるべきでないとしたら、それは不合理である)が、ツイッター上のその投稿はこうした提言を強く否定していた。

 投稿者によれば、小児性愛は厳密には同性愛とは別のカテゴリーに分類されるべき性愛の形態であるという。極めて大雑把に言って、同性愛は、性別スペクトラム(という語を自分は聞き覚えが幾度となくあるのだが著者名の印字されたちゃんとした出典で学んだわけではない。よい種本があれば御教授願いたい)において男女のうちの同性にカテゴライズされる人間のあいだに生じる愛である。同性愛は性別にかかわる少数者である。

 しかるに小児性愛は性別ではなく、読んで字のごとく小児に対する性愛である小児性愛は、その主体の年齢や性別の如何にかかわりなく、対象の年齢が一定未満である場合にそういわれる、年齢にかかわる少数者である。

 重要なのは、同性愛と小児性愛が一人の人間の内に共在しうるということである。同性愛者であると同時に異性愛者であると言うことはできない。そのような人間は代わって両性愛者であると言われるか、そもそも語義矛盾であるとして命題が退けられる。少なくともナイーブな視点でいえば、同性愛と異性愛は一人の人間の内に共在しえない、互いに排斥しあう概念である。

 小児性愛をもっぱら小児にのみ性的興奮を覚える人間として定義した場合、小児性愛者であると同時に(次のような言葉は普段用いられないが、小児性愛者の対概念として)成人性愛者であるということはできない、これは端的に偽である。単純に小児に性的興奮を覚える人間という程度の意味合いで小児性愛という語を定義しても、小児性愛者であると同時に成人性愛者であるということは、そのような集合を指すのに特殊な名辞を発明する必要のあることがらであるだろう。

 中心的であるとされる異性愛者に対して他者化/周縁化(この表記のエクリチュールが大変気に食わない)された同性愛者と、同じく周縁化された小児性愛者は、どちらも性的少数者にカテゴライズされるが、両者を少数者として分類する由縁は異なっている。同性愛と小児性愛は、性別と年齢という全く異なる観点から構成された少数者なのである。

 以上から、同性愛者の問題について適用される施策が常に小児性愛者の問題についても適用されねばならないという主張は真ではないという主張が導き出せる。

 

 くだんの投稿者は合意形成能力の有無についても言及しているがここでは贅言を要しない。

 しかし自分は虚無的平等主義者である。やはり徹底して人間相互の差異を無化していくことによって人間の平等を達成したい。端的に言って、性愛の方向性にもとづいて人間相互の待遇に何等か差別を設けることは労多く益少ない行為である。

小児性愛者である事実を公表すること自体がそれを訊いた小児に対する性暴力に等しい」という主張もおぼろげに聞き及んでいる。このあたりの表象の理論についてはいろいろの議論があるのだろうが、やはりここでは扱えない。しかし、然々の「恐怖を覚える」感覚と、そこから進んで「侮辱的な言葉で恐怖を表明することは許される」と判断する行為の間には、何か飛躍を見ないではいられない。、「しかし、……いられない」という感覚を自分は抱いているわけだが、これが事実どこから来たものか由来をぱっと思い出せない。