Paedophil/iaについての所感ふたたび、その1

 内藤正典氏の新書を読んでそちらの感想を先に書こうと思っているのにまるで体力が足らない。文章を書くのにも体力が必要で、東浩紀の顔が今パッと浮かんだのだが、彼もまた多く文字を書いて飯を食う人間であり、その大いに文字を書いて暮らすということのバイタリティを思うと尊敬する気持ちになる。

 

 先日土屋恵一郎『正義論/自由論 寛容の時代へ』を読んで、まあ「寛容」という現代の教義を擁護しているだけといえばそうなのでその部分はあまり肌に合わなかったのだが、ベンサムとミルの自由に関する理論のくだりは以前から自分がペドフィルについてぼんやり考えてきたことについて非常に参考になった。なんとこいつ自由論の古典の双璧を読んでいない。

 ベンサムおよびミルが生きた当時のイギリスは苛烈な同性愛差別が国の法制にもいきわたっていた。同性愛が発覚しても刑事罰に問われなくなったのはようやく二人が鬼籍に入ったはるか未来の1967年のことである。両名存命中には同性愛の「合法化」などはるかな理想の出来事であったに違いないが、とにかくベンサムは同性愛について啓示で禁じられた食物を喫することに寛容なプロテスタント英国人が啓示で禁じられた性の快楽には苛烈な批判を加えることを論難している。同性愛者は「趣味の異端者」、偏食家に過ぎない。誰も偏食家を殺そうとは思わないだろう。然るに当時の英国では同性愛者に致命的な罰を与え、市民はひきまわされる同性愛者に犬猫の死骸や石ころを投げつけるという乱暴狼藉をはたらいている、これは不合理である。なぜ性という私的な領域に国家や共同体が入り込むのか……。

 ベンサムの弟子筋のミルは「他者被害の原則」をあげて同性愛そしてモルモン教徒の一夫多妻制を擁護している。個人あるいはある集団の行動について、他人ないしその外部からみて行動が愚かしく反動的なものにみえるとしても、その外部に危害をくわえることのないかぎりにおいては、それらの行為を成す自由を何人も妨げてはならない。土屋はエホバの証人モルモン教といった宗教問題の文脈でこの原則をひいているが、無論同性愛についてもこの原理は援用できる。先日五十年連れ添った二人の男性がパートナーシップ契約を結ぶ事を決断したとかいうニュースを目にしたが、この契約の内実には当事者たった二人しかかかわっていない。単純にパートナーシップを結ぶという契約それ自体は他人を害さないものである。よって二人の契約は何者に妨げられることもなしに恙なく結ばれるというわけである。また、愛しあう二人がいる、いや三人でも四人でもいい、夜になって閨に入り睦みあう、あるのは愛と快楽である。その行為は寝床の外にいる人々をいささかも害することはない。そしてそのようであるのならば……どうして声高に非難し、罵声を浴びせ、あまつさえ法の名の下に命を奪うことができようか。

 

 自分はかねてから同性愛と小児性愛を同じく趣味の問題として考え、数的少数者であるという点から両者を同じ類にふりわけて、同性愛者に対する悪口雑言を非難する立場がありながら小児性愛者に対しては平然と人格否定が為される現状に対して不満を抱いていた。

 この同性愛者ないし小児性愛者に対する非難は、

 ①同性愛の行為に対する非難であるのか、②同性愛者であるto be homophilという存在に対する非難であるのか、

 ③小児性愛の行為に対する非難であるのか、④小児性愛者であるto be paedophilという存在に対する非難であるのか、

 これらが非難する諸個人の間で不統一であるだろうし、確実にこれと同定できない場合も多くあるだろう。

 小児性愛を非難し、ときに小児性愛者の小児性愛者であるという存在を非難する人間は、とっかかりとして③を非難するところからはじめる印象がある。上でおおよそふれたベンサムおよびミルによる議論を参照しながら、以下で小児性愛の行為とはいかなるものか検討する。

 

その2に続く