書き溜め

 性的ハラスメントの問題点がわからない漫画家とか、ラッキースケベ表現を愛好する女性とか、この辺りは個人というより社会構造の問題なのだから、責任を個人にとらせるのもまたピントのずれた議論なのではないか、と思わないでもない。人間は責められる客体にも責める主体にもなりえないのではないか。
 抑圧され搾取されているはずの女性でさえ少年誌の性的表現を愛好する場合がある…一見するとこれは不合理だ。だが事実そうしたことが起きているのだとしたら、そういった旨のツイートが観測できるとしたら、個人への責めでは解決できない問題がそこに含まれてはいないか、と自問することはできる。
 ……だいたいこんなものは、せいぜい初歩も初歩の問題提起に過ぎない。当たり前のことで、これ以上自分は何も言えない素人なのだが、せいぜいその程度の頭しか持っていないことを考えるだに気が重くなる。何もできない。

 

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 ネットで藁人形をいくら打っても更生する人間は更生するし更生しない人間は更生しないので、こう、言論のできる人間同士で言論していけるといいですね、という思いがある。
 最近つくづく思うのは「憎悪している場合ではない」ということで、憎悪だけ、情念だけでは世界を動かすには足りない、何が起こっているのかをつかみ、要因を探り、可能な次の一歩を提案しなければならない。シオニストへのミソジニストへのミサンドリストへの憎悪は人間世界を変革するに足りない。

 It is the prime action and the first step of that to change the world to have Wrath and Hate against reality in front of ones.

 

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「オタクから居場所を奪おうとしているのは、他ならぬ社会性を欠いたオタクであることに気が付きましょう」…「フェミニストから居場所を奪おうとしているのは、他ならぬ妥当性を欠いたフェミニズムであることに気が付きましょう」…どちらにしても、一体どうやって自浄できる?と問う事は可能である。
 自浄作用なんて、この広大なネットの空間の中で、どんな陣営にしても、発揮できるものではない。一番程度の低い層を見てことさらにあげつらうのは議論を進めないどころか無用の対立を生み害悪であるから、ツイッター言論から降りるにしくはない、ということになる。

 東浩紀も樋口恭介もそうした。

 人間は言論を扱うには愚かすぎる、青識亜論やjiji、あるいはその他有象無象……こうした多数をも人間として包摂するのが近代の基本的人権の尊重の理念ではある。しかし、言論の場に立つ権利について、そこに立ったところで害悪しかもたらさない人間をどう処遇すべきかという問題があるのではないか……それでも基本的人権はあらゆる人間に担保されなければならない、というのが対する主張だろう。