死ぬのを拒んでいる言葉―保坂和志『未明の闘争』について―

 エマニュエル・レヴィナスは初期の論考『実存から実存者へ』の中でアンリ・ベルクソンに言及して次のように言っている。

 

あるメロディーを聴くとき、私たちはやはりその持続を全体的にたどっている。……メロディーの瞬間瞬間は、メロディーのなかで本質的につながっている持続にその生命を捧げているゆえにこそ実存している……メロディーは、ベルクソンが純粋持続の下敷きとした完全なモデルである。音楽の持続を要素に部分化することはできるし、その要素を数えることもできるということは異論の立てようもないだろう。しかし瞬間のひとつひとつはそこではものの数ではない。*1

 

 ベルクソンは『時間と自由』の中で、客観的世界の実在を括弧に入れた上で人間の意識にあらわれてくる表象全体を持続と名付けた。そこには精神が経験する時間も含まれているが、この時間は瞬間瞬間の堆積という形をとらずに、切れ目なしに過去にも未来にものびる連続体として理解される。

 

 ここでレヴィナスベルクソンの言う純粋持続をメロディー、わかりやすいものを挙げるならばヴァイオリンなどの弦楽器のメロディーに仮託している。持続、意識に直接与えられたもの、これはいっさいの切れ目なしに続くひとつづきであり、ストップウォッチやメスシリンダーによって分割可能な部分部分を持たない。メロディーについてもこれはあてはまる。もちろん録音された音源を断ち切って一秒ごとの音色をとりだすことはできる。しかしそれらはあくまでもメロディー全体から切り離された一部のひとつひとつであって、分割された一々がもととなったメロディーを構成する要素を完全に含んでいるということはない。メロディー全体とその部分は別々の身分を有している。全体は部分ではなく、部分は全体ではない。そしてメロディーの場合……繰り返すようだが……その瞬間瞬間はメロディー全体の内へ完全に溶けだしているのである。

 

 レヴィナスはかかる持続の概念を瞬間の概念と対比させる。瞬間、それはメロディー全体のひとつづきに対して、その中でメロディーが流れる時間を長さがゼロになるまで分割し、その長さを持たない時間およびその中に含まれるメロディーのいち部分を指す。時間はたしかに切れ目なしに連続しているが、同時に瞬間の積み重ねでもある 。引用中ではこれをベルクソンと同じく音楽を例に説明している。時間的な幅をまったく持たない一点である瞬間、その一つ一つは音楽的な旋律を構成するまさにそのことによって消え去ってしまう。音の一瞬一瞬はメロディーという全体に奉仕して死んでいく。これは特に管弦楽について想起すれば理解しやすいが、打楽器についても事情は同じである。打楽器の一拍も短いながら時間的な幅を持っているが、瞬間とは幅を持たない一点なのだから。

 

 幅を持たない一点……われわれはここでゼノンのパラドックスの一つ「飛んでいる矢は止まっている」を想起することができる。飛んでいる矢は一定の時間で一定の距離を飛ぶものである。しかるに時間を細分していくと、細分された時間で矢が飛ぶ距離も自然短くなる。こうして時間を無限小にまで細切れにしていくと、その無限小の時間の中で矢は微動だにすることがなくなる。その瞬間をいくら積み重ねたところで運動量は零をいくら足しても零であるのだから零だ。よって「飛んでいる矢は止まっている」……

 

 瞬間は、確かに存在するのである。しかしその瞬間瞬間は時間的幅が零であり、その時において矢は動くことがない。ここでは正当な権利を主張できるはずの瞬間が奇妙にもその存在を閑却されており、「ものの数ではな」く、いないも同然である。瞬間のひとつひとつは、メロディ-の流れの中で然るべき地位を全く有しておらず、すべてがメロディーの中に溶け込んでいる。レヴィナスは上の引用に続いて次のように書いている。

 

メロディーの瞬間瞬間は死ぬためだけにそこにある。*2

 

 ここまで読んできて、「なんだ、保坂和志の小説についての記事じゃないのか」と思った諸子、ちょっと待ってほしい。レヴィナスは死ぬためだけにそこにある瞬間についてだけこの初期論考で語ったわけではないし、彼が語ったもう一つの観念こそ、保坂和志の『未明の闘争』の文体の特長を過不足なく示すものであるのだ。

 

 保坂和志の長編小説『未明の闘争』は想起の記述のみによって成り立っている。語り手の現在から九年前をおおよその基準点に置いて「私」星川の見た夢や、端々の記憶、空想がないまぜになっている。各々の記述はある程度の幅を持っており、全体を総括するクライマックスを終盤に据えた構成をとらず、さしあたり無秩序に記述が並べられている。『未明の闘争』の言葉や一々のパラグラフ、諸回想は、それらの一つ一つから何らか高次の或物が導き出されるような性格を持っていない。諸回想は相互に独立しており、連続の中に全体の一部となってあるのではない。

 

 対照的なものとして、たとえばドストエフスキーの『罪と罰』であれば、主人公のラスコーリニコフと対立するのはポルフィーリイ、ルージン、スヴィドリガイロフであって、彼らとの対立からラスコーリニコフの思想や行動がいわば導出されてくる。老婆を殺害したラスコーリニコフは意図せぬ第二の殺人のために苦しみぬき、ラズミーヒンやソーニャを含めた周囲の人々とのかかわりを通して最終的な行動……自首……があらわれてくる。小説を構成する部分部分はいわば計算式の役割を担っている 。そのような計算式と解の関係は、『未明の闘争』の中には自然なかたちで見出すことができない。

 

 このようなありかた、『未明の闘争』中の諸断片の非相補性、一個の体系を構成することのない綜合不能性は、メロディーの中で死ぬためだけにそこにある瞬間のありかたとは対照的である。そしてレヴィナスはかかる特徴を有した音を次のように評している。

 

調子はずれの音は死ぬのを拒んでいる音だ。*3

 

 ソ音から低いレ音への滑らかな変遷の途中に不意に高いシ音が挿入されるとき、その高いシ音はメロディーの中で死ぬためだけにそこにあるという特徴をより少なく持っている。持っていないということができないのは、シ音もまた流れる音声である以上は時間的な長さを持ち、無限に瞬間まで分割可能だからである。しかしそれは「死ぬのを拒んでいる」。統一する全体に抗って、複数の瞬間が己の固有性を主張する。筋書きの流れの中で書かれた言葉が筋書きの流れに抗い、隣接する前後の流れを断ち切って、「私は然々のようにある」と浮き上がる。序盤を過ぎてから最後まで一貫して『未明の闘争』の言葉はおよそそのように書かれている。『未明の闘争』は、死ぬのを拒んでいる言葉で書かれている。

 

『未明の闘争』についても細部を捨象した何らか統一的な解釈をうち出すことは不可能ではないだろうが、それによって失われるものは非常に多い。そのように、失われるものが多いことが、保坂和志が『未明の闘争』において用いた文体の特長を示している。

 

 

 結局筆者は『未明の闘争』以来の保坂の小説をまだ読んでいない。『プレーンソング』から順に読んでいて、『未明の闘争』で終わっている。間の『カンバセイション・ピース』『その人の閾』と評論三部作も読んでいない。渋谷の紀伊国屋だったかに行って早く買い求めよう。2010年代のものはいくらか文庫があるはずだ。

*1:p. 61. エマニュエル・レヴィナス西谷修訳『実存から実存者へ』第3刷2012年、筑摩書房、中略筆者

*2:ibid.

*3:ibid.