人間の絶対的無価値~京都某アニメーション企業放火事件の反応について~

 京都のアニメーション製作企業がガソリンの爆発炎上により焼け、8月2日現在35人が死亡する事件が起こった。インターネットでも方々から悼む声が寄せられる中で、それら悼む声の一部に対して、「これらは、相模原市の障害者施設における殺傷事件への反応とあまりにも違う」「あちらではむしろ犯人を肯定しもしていたのに、こちらでは大仰に悲しみ、犯人に対する厳罰をさえ望んでいる」という批判もまた上がっている。
一方では日本有数のアニメーション製作企業の人員の死を悲しみ、他方では寝たきりになるほどの重度障害者の死を(消極的にもまた積極的にも)肯定する。一方の犯人には憤り、他方の犯人には同情する。

 

 このような態度は、それ自体においては、一貫したものである。すなわちある人間が他にとって有用であるか、ないかという観点で人間の価値を判定する思想に則っている場合、世界的アニメーション制作企業の人員は多くの人に娯楽を提供しており、また技術の研鑽によって表現を追究し、現代美術の最先端としての地位を築いていくことになるから、有用であると共に貴重でもある。翻って自力で排泄も出来ないような重度障害者は、生活に介助者を不可欠としているから、その介助者が他所でできたはずの労働とそれを通じた生産を阻害していると解釈され、無用と認識されるようになる。有用性、あるいは流行りの言葉で言えば生産性にもっぱら従った価値観の下では、重度障害者の生存は最早一個の害であるようにさえ見える。アニメーション製作企業の人間は有用かつ生産的であるから、その死を特別悼まれることになる。

 

 批判の声が論難の対象としているのは、複数態度間の論理的な矛盾ではなく、まさにそのような態度をとることに現れるモラルの欠如である、と解釈することは可能である。そしておそらくこれらの批判の発話者はそうした意図を持って発言している。上に見たように、二つの態度の間には何ら論理的な矛盾は存在せず、有用性という同じ価値基準に則って全く妥当な判断を下している。ならばその価値基準こそが、彼らの批判の対象なのである。

 

 

 倫理的な批判は存在しうる。しかし問題は、そのような高い倫理的徳性を人間に要求する言説が、当の言説が向けられる人間に意図通りに受け取られうるだろうか、という点である。このあたり大変信用がならなくないか。

 

 この国土に住まう人間の有する基本的性状の一半は、およそ近代市民の名に値しない程度の蒼氓、禽獣、下衆に他ならない。あるいは過半か?*1そのような人間の書くことであるから、かなり悲観主義的な色があるかもわからない。しかしとにかく倭人の大半には高い倫理や道徳なるものを期待しないとして、それと議論するにあたり、われわれは特別な高い道徳的資質を一切必要としない仕方ですすめることとしたい。

 

 

 一人の人間がいる、と仮定する。その人物はある芸術のいち分野で世界的な技術を有しているとする。色々な作品を作っては各地にもっていき、展示する。賞賛を浴びる。ここで賞賛を浴びているのは、芸術家と芸術作品のどちらであるのか?

 

 芸術作品の評価……その基準として参照されるのは、同じ分野の過去の作品である。作品は先行作品と比較されながらその評価が定まる。これに異論を差し挟む者はまさかあるまい。最新の芸術作品は過去の芸術作品の派閥や技法の総体と比較検討され、芸術の一分野の歴史の中で何らか一定の評価が定められる。時間がたてばその芸術作品に影響を受けた作品が生まれ、あるいは生まれず、ある時点に生まれた独自の発想が伝承されるか否かという点からもその芸術作品は評価されることになる。*2

 

 芸術作品は人間によって評価されるのではなく、芸術作品によって評価される。これは芸術作品に限定する必要はなく、学術論文や工業製品でもいい。効率の良い運動の伝達のための機構が手を変え品を変え製作され、あるものは消え、あるものは発展的に継承され、あるものは存続する。ある理論は消え、ある理論は批判的に継承され、ある理論は存続する。主たるものは機構であり、デザインであり、理論である。そこに人間が介在する余地はない。

 

 芸術家が賞賛の的となるのはいわば一種のメトニミーであり、ある技法や理論に人間の名前が冠せられるのは一種の記念碑的エポニムではあるが、それより大なるものではない。イマヌエル・カントによる超越論的な理性批判、「コペルニクスの最初の方法」(現在コペルニクス的転回……ここにもエポニムが隠れている……と呼ばれる思考の反転)に則った理性能力の限界を規定する思考は、イマヌエル・カントの名の下に現在知られているが、当の18世紀ドイツ語圏の思想家によってこうした思考法が発明されなければならなかった、彼以外にこの思考法が発明されることはありえなかったという必然性は、当然ながら、ない。

 

 すると、賞賛されるべきものである芸術作品と、その作り手でありながら、当の作品の作り手である必然性を全く有していない芸術家の、どちらに価値があることになるか。繰り返すが、評価される対象は作品であり、作品の評価は先行する諸作品との関係からさしあたり決定され、その価値の順当なる継承の成否は後続する作品において決定されるのである。人間の名前は作品の名を代替する機能を果たすが、それより大なるものではない。価値を持つのは作品である、人間ではない。

 

 

 逆向きの論証も必要である。文責者は幸運にも五体満足であるが、運動機能に甚大な問題がある人間の場合、日常生活にも介助を必要とする。介助される側も置物ではないから、介護施設において利用者による職員への暴力が問題として持ち上がっている報道も存在するように、虫の居所が悪ければ暴言暴力もやる。
www.nhk.or.jp

 認知症の進行で前後不覚になった人間の場合、責任能力がないだけでなく本人も暴行を忘れている場合があり、交渉によって解決することが難しくなりうる。相模原市障碍者施設での入居者・職員殺傷事件の容疑者も、介護職員を経験した際同様の問題に突き当り悩んでいたというから、重大である。

 ところで、ここにおいて問題になるのは暴力ではないか、と指摘することができる。もし、この認知症患者がまったく暴力を振るわない温厚な人間であったら、認知症患者がそうあることの問題はひとまずないものとみることができるであろう。ある認知症患者について、その暴力的であることのためにその患者が問題とされるのであり、暴力性という人間にくっついた特殊な属性こそが問題とされている。

 価値があるのは属性である。人間ではない。

 

 

 以上より、価値を持つのは個々の人間ではなしに、物体あるいは属性であると、簡単に述べることができたように思う。価値は測られうるし、有用性とはこの測られた価値に基づいて測られる。物体や属性は何らか価値を有しているらしい。ところが、価値を持つのは人間ではない。人間は価値を持たず、価値ある属性を持つのみである。人間は属性の基体であり、価値の基体ではない。

 

 問題なのは有用性を価値の基体に過ぎないところの人間に当てはめて、有用性を人間の価値(この言葉が形容矛盾であることは上で論証された)の尺度にする態度である。価値があるのは技術その他であり人間ではないということから始めなければならない。ある人がほとんど世界的な映像製作技術の担い手であるとして、ここで世界的なものは技術であって人間ではない。作品を制作する技術、という属性の基体である人間が、世界的な技術を有しているまさにその人間であらねばならなかった、それ以外にはありえなかったという必然的な理由も原因もない。誰が世界的な技術を持っていようと、何ら問題ではないのだ。同様に誰がどれだけ重い障害を有していようと、そこに神による無からの創造や輪廻転生による業の介入が存在したとは、われわれは考えない。少なくともわれわれは。*3アニメーションの資料が燃えた、これは悲しむべきことだ。高い製作技術が失われた、これも悲しむべきことだ。しかし、一人の人間の死は(遺憾ながら?)平等であり、ある人間一人の死は、他の人間一人の死と同程度の痛ましさしか持たない‬。

 

 

 先の相模原の事件では19人が死亡しているから、われわれは19人分の死を、それぞれ一人分ずつ、悼むことができる。アニメーション制作会社の事件では現在35人が死亡しているから、われわれは35人分の死を、それぞれ一人分ずつ、悼むことができる。それぞれ19、それぞれ35。われわれはそれより多くを悼むことはできないし、それより少なく悼むことはできない。何故なら、死んでいるのは19人の人間であり、35人の人間であるから。

 

 われわれはそれら一人一人を悼むことはできても、一人一人に対して悼む悼みの多寡を恣にすることはできない。これは不可能性の問題である。一人への悼みは形式上一人分の悼み以上の量を持ちえないから、一人悼むごとに積み重なる一つの悼みの数を、われわれは一より多くすることも少なくすることもできない。われわれは一人につき一つ悼みを行うことしかできず、それゆえに、(法則を枉げてはならないから)、一人を前にして一つだけを悼まなければならない。

 

 

 倫理学というものを、人間の行動における当為の問題を扱う言説の総体として定義するなら、以上の書かれたものは倫理学的な書きものである。われわれの悼みの能力の絶対的な無力から導出された倫理である。一人につき一人分だけ弔鐘が鳴らされる。19人の死には19人分の弔鐘が、35人の死には35人分の弔鐘が。われわれはそれより多く鳴らすことも、少なく鳴らすことも、果たしてできるだろうか? いかなる価値も持たない人間の一つ一つの死に、一つ分以上の悼みを行うことが。

 できるとしたら……彼はその根拠の現実存在を論証しなければならない。

*1:少なくとも文責者は、日本に住まう倭人の多くについて、特筆すべき高い徳性を備えた者はせいぜい少ないという程度に留まるだろうと思いなしている。人生の一時期以降幸運にも良き人々との交際に恵まれたが、それは或る種の特殊な環境に自分が身を置いているからであって、限定的なそうした環境以外、すなわち国土の大半においては、どれほどの不正義と蒙昧が猖獗を極めていることかわかったものではない。そのような環境で優位に立っている人間の内における倫理の存在を、われわれは信じない。

*2:もちろんこうした想定は一種の理想状態であって、実際には界隈ごとの権力関係によって不要なばらつきがありうるだろう。しかし、そのような審理がのちに暴かれるにあたって、人はかかる恣意を不正なものとみなすのではないか……そう論じることもやはり可能である。しかしこれは何か道徳的なものを呼び起こすため、この場で用いることはない。

*3:ここでハイデガーを引いてもいい。ハイデガーは、人間が世界の内にある客体的な物とかかわるあり方について、そうしたあり方は何ら一人一人に固有な仕方ではなく、誰が同じことをしても変わりないことであると述べている。誰が世界第一級の技術を持とうと、誰が首から下をまともに動かせず物や人と関わりえなかろうと、そんなことは人間存在にとって何ら重要な事柄ではない、「非本来的」なことだと述べている。これはニヒリズムに基づいた前期ハイデガー思想の解釈である。だいぶ乱暴な心身二元論を使っているのではないかとも思う。