書き溜め

 性的ハラスメントの問題点がわからない漫画家とか、ラッキースケベ表現を愛好する女性とか、この辺りは個人というより社会構造の問題なのだから、責任を個人にとらせるのもまたピントのずれた議論なのではないか、と思わないでもない。人間は責められる客体にも責める主体にもなりえないのではないか。
 抑圧され搾取されているはずの女性でさえ少年誌の性的表現を愛好する場合がある…一見するとこれは不合理だ。だが事実そうしたことが起きているのだとしたら、そういった旨のツイートが観測できるとしたら、個人への責めでは解決できない問題がそこに含まれてはいないか、と自問することはできる。
 ……だいたいこんなものは、せいぜい初歩も初歩の問題提起に過ぎない。当たり前のことで、これ以上自分は何も言えない素人なのだが、せいぜいその程度の頭しか持っていないことを考えるだに気が重くなる。何もできない。

 

   *

 

 ネットで藁人形をいくら打っても更生する人間は更生するし更生しない人間は更生しないので、こう、言論のできる人間同士で言論していけるといいですね、という思いがある。
 最近つくづく思うのは「憎悪している場合ではない」ということで、憎悪だけ、情念だけでは世界を動かすには足りない、何が起こっているのかをつかみ、要因を探り、可能な次の一歩を提案しなければならない。シオニストへのミソジニストへのミサンドリストへの憎悪は人間世界を変革するに足りない。

 It is the prime action and the first step of that to change the world to have Wrath and Hate against reality in front of ones.

 

   *

 

「オタクから居場所を奪おうとしているのは、他ならぬ社会性を欠いたオタクであることに気が付きましょう」…「フェミニストから居場所を奪おうとしているのは、他ならぬ妥当性を欠いたフェミニズムであることに気が付きましょう」…どちらにしても、一体どうやって自浄できる?と問う事は可能である。
 自浄作用なんて、この広大なネットの空間の中で、どんな陣営にしても、発揮できるものではない。一番程度の低い層を見てことさらにあげつらうのは議論を進めないどころか無用の対立を生み害悪であるから、ツイッター言論から降りるにしくはない、ということになる。

 東浩紀も樋口恭介もそうした。

 人間は言論を扱うには愚かすぎる、青識亜論やjiji、あるいはその他有象無象……こうした多数をも人間として包摂するのが近代の基本的人権の尊重の理念ではある。しかし、言論の場に立つ権利について、そこに立ったところで害悪しかもたらさない人間をどう処遇すべきかという問題があるのではないか……それでも基本的人権はあらゆる人間に担保されなければならない、というのが対する主張だろう。

 

人間の絶対的無価値~京都某アニメーション企業放火事件の反応について~

 京都のアニメーション製作企業がガソリンの爆発炎上により焼け、8月2日現在35人が死亡する事件が起こった。インターネットでも方々から悼む声が寄せられる中で、それら悼む声の一部に対して、「これらは、相模原市の障害者施設における殺傷事件への反応とあまりにも違う」「あちらではむしろ犯人を肯定しもしていたのに、こちらでは大仰に悲しみ、犯人に対する厳罰をさえ望んでいる」という批判もまた上がっている。
一方では日本有数のアニメーション製作企業の人員の死を悲しみ、他方では寝たきりになるほどの重度障害者の死を(消極的にもまた積極的にも)肯定する。一方の犯人には憤り、他方の犯人には同情する。

 

 このような態度は、それ自体においては、一貫したものである。すなわちある人間が他にとって有用であるか、ないかという観点で人間の価値を判定する思想に則っている場合、世界的アニメーション制作企業の人員は多くの人に娯楽を提供しており、また技術の研鑽によって表現を追究し、現代美術の最先端としての地位を築いていくことになるから、有用であると共に貴重でもある。翻って自力で排泄も出来ないような重度障害者は、生活に介助者を不可欠としているから、その介助者が他所でできたはずの労働とそれを通じた生産を阻害していると解釈され、無用と認識されるようになる。有用性、あるいは流行りの言葉で言えば生産性にもっぱら従った価値観の下では、重度障害者の生存は最早一個の害であるようにさえ見える。アニメーション製作企業の人間は有用かつ生産的であるから、その死を特別悼まれることになる。

 

 批判の声が論難の対象としているのは、複数態度間の論理的な矛盾ではなく、まさにそのような態度をとることに現れるモラルの欠如である、と解釈することは可能である。そしておそらくこれらの批判の発話者はそうした意図を持って発言している。上に見たように、二つの態度の間には何ら論理的な矛盾は存在せず、有用性という同じ価値基準に則って全く妥当な判断を下している。ならばその価値基準こそが、彼らの批判の対象なのである。

 

 

 倫理的な批判は存在しうる。しかし問題は、そのような高い倫理的徳性を人間に要求する言説が、当の言説が向けられる人間に意図通りに受け取られうるだろうか、という点である。このあたり大変信用がならなくないか。

 

 この国土に住まう人間の有する基本的性状の一半は、およそ近代市民の名に値しない程度の蒼氓、禽獣、下衆に他ならない。あるいは過半か?*1そのような人間の書くことであるから、かなり悲観主義的な色があるかもわからない。しかしとにかく倭人の大半には高い倫理や道徳なるものを期待しないとして、それと議論するにあたり、われわれは特別な高い道徳的資質を一切必要としない仕方ですすめることとしたい。

 

 

 一人の人間がいる、と仮定する。その人物はある芸術のいち分野で世界的な技術を有しているとする。色々な作品を作っては各地にもっていき、展示する。賞賛を浴びる。ここで賞賛を浴びているのは、芸術家と芸術作品のどちらであるのか?

 

 芸術作品の評価……その基準として参照されるのは、同じ分野の過去の作品である。作品は先行作品と比較されながらその評価が定まる。これに異論を差し挟む者はまさかあるまい。最新の芸術作品は過去の芸術作品の派閥や技法の総体と比較検討され、芸術の一分野の歴史の中で何らか一定の評価が定められる。時間がたてばその芸術作品に影響を受けた作品が生まれ、あるいは生まれず、ある時点に生まれた独自の発想が伝承されるか否かという点からもその芸術作品は評価されることになる。*2

 

 芸術作品は人間によって評価されるのではなく、芸術作品によって評価される。これは芸術作品に限定する必要はなく、学術論文や工業製品でもいい。効率の良い運動の伝達のための機構が手を変え品を変え製作され、あるものは消え、あるものは発展的に継承され、あるものは存続する。ある理論は消え、ある理論は批判的に継承され、ある理論は存続する。主たるものは機構であり、デザインであり、理論である。そこに人間が介在する余地はない。

 

 芸術家が賞賛の的となるのはいわば一種のメトニミーであり、ある技法や理論に人間の名前が冠せられるのは一種の記念碑的エポニムではあるが、それより大なるものではない。イマヌエル・カントによる超越論的な理性批判、「コペルニクスの最初の方法」(現在コペルニクス的転回……ここにもエポニムが隠れている……と呼ばれる思考の反転)に則った理性能力の限界を規定する思考は、イマヌエル・カントの名の下に現在知られているが、当の18世紀ドイツ語圏の思想家によってこうした思考法が発明されなければならなかった、彼以外にこの思考法が発明されることはありえなかったという必然性は、当然ながら、ない。

 

 すると、賞賛されるべきものである芸術作品と、その作り手でありながら、当の作品の作り手である必然性を全く有していない芸術家の、どちらに価値があることになるか。繰り返すが、評価される対象は作品であり、作品の評価は先行する諸作品との関係からさしあたり決定され、その価値の順当なる継承の成否は後続する作品において決定されるのである。人間の名前は作品の名を代替する機能を果たすが、それより大なるものではない。価値を持つのは作品である、人間ではない。

 

 

 逆向きの論証も必要である。文責者は幸運にも五体満足であるが、運動機能に甚大な問題がある人間の場合、日常生活にも介助を必要とする。介助される側も置物ではないから、介護施設において利用者による職員への暴力が問題として持ち上がっている報道も存在するように、虫の居所が悪ければ暴言暴力もやる。
www.nhk.or.jp

 認知症の進行で前後不覚になった人間の場合、責任能力がないだけでなく本人も暴行を忘れている場合があり、交渉によって解決することが難しくなりうる。相模原市障碍者施設での入居者・職員殺傷事件の容疑者も、介護職員を経験した際同様の問題に突き当り悩んでいたというから、重大である。

 ところで、ここにおいて問題になるのは暴力ではないか、と指摘することができる。もし、この認知症患者がまったく暴力を振るわない温厚な人間であったら、認知症患者がそうあることの問題はひとまずないものとみることができるであろう。ある認知症患者について、その暴力的であることのためにその患者が問題とされるのであり、暴力性という人間にくっついた特殊な属性こそが問題とされている。

 価値があるのは属性である。人間ではない。

 

 

 以上より、価値を持つのは個々の人間ではなしに、物体あるいは属性であると、簡単に述べることができたように思う。価値は測られうるし、有用性とはこの測られた価値に基づいて測られる。物体や属性は何らか価値を有しているらしい。ところが、価値を持つのは人間ではない。人間は価値を持たず、価値ある属性を持つのみである。人間は属性の基体であり、価値の基体ではない。

 

 問題なのは有用性を価値の基体に過ぎないところの人間に当てはめて、有用性を人間の価値(この言葉が形容矛盾であることは上で論証された)の尺度にする態度である。価値があるのは技術その他であり人間ではないということから始めなければならない。ある人がほとんど世界的な映像製作技術の担い手であるとして、ここで世界的なものは技術であって人間ではない。作品を制作する技術、という属性の基体である人間が、世界的な技術を有しているまさにその人間であらねばならなかった、それ以外にはありえなかったという必然的な理由も原因もない。誰が世界的な技術を持っていようと、何ら問題ではないのだ。同様に誰がどれだけ重い障害を有していようと、そこに神による無からの創造や輪廻転生による業の介入が存在したとは、われわれは考えない。少なくともわれわれは。*3アニメーションの資料が燃えた、これは悲しむべきことだ。高い製作技術が失われた、これも悲しむべきことだ。しかし、一人の人間の死は(遺憾ながら?)平等であり、ある人間一人の死は、他の人間一人の死と同程度の痛ましさしか持たない‬。

 

 

 先の相模原の事件では19人が死亡しているから、われわれは19人分の死を、それぞれ一人分ずつ、悼むことができる。アニメーション制作会社の事件では現在35人が死亡しているから、われわれは35人分の死を、それぞれ一人分ずつ、悼むことができる。それぞれ19、それぞれ35。われわれはそれより多くを悼むことはできないし、それより少なく悼むことはできない。何故なら、死んでいるのは19人の人間であり、35人の人間であるから。

 

 われわれはそれら一人一人を悼むことはできても、一人一人に対して悼む悼みの多寡を恣にすることはできない。これは不可能性の問題である。一人への悼みは形式上一人分の悼み以上の量を持ちえないから、一人悼むごとに積み重なる一つの悼みの数を、われわれは一より多くすることも少なくすることもできない。われわれは一人につき一つ悼みを行うことしかできず、それゆえに、(法則を枉げてはならないから)、一人を前にして一つだけを悼まなければならない。

 

 

 倫理学というものを、人間の行動における当為の問題を扱う言説の総体として定義するなら、以上の書かれたものは倫理学的な書きものである。われわれの悼みの能力の絶対的な無力から導出された倫理である。一人につき一人分だけ弔鐘が鳴らされる。19人の死には19人分の弔鐘が、35人の死には35人分の弔鐘が。われわれはそれより多く鳴らすことも、少なく鳴らすことも、果たしてできるだろうか? いかなる価値も持たない人間の一つ一つの死に、一つ分以上の悼みを行うことが。

 できるとしたら……彼はその根拠の現実存在を論証しなければならない。

*1:少なくとも文責者は、日本に住まう倭人の多くについて、特筆すべき高い徳性を備えた者はせいぜい少ないという程度に留まるだろうと思いなしている。人生の一時期以降幸運にも良き人々との交際に恵まれたが、それは或る種の特殊な環境に自分が身を置いているからであって、限定的なそうした環境以外、すなわち国土の大半においては、どれほどの不正義と蒙昧が猖獗を極めていることかわかったものではない。そのような環境で優位に立っている人間の内における倫理の存在を、われわれは信じない。

*2:もちろんこうした想定は一種の理想状態であって、実際には界隈ごとの権力関係によって不要なばらつきがありうるだろう。しかし、そのような審理がのちに暴かれるにあたって、人はかかる恣意を不正なものとみなすのではないか……そう論じることもやはり可能である。しかしこれは何か道徳的なものを呼び起こすため、この場で用いることはない。

*3:ここでハイデガーを引いてもいい。ハイデガーは、人間が世界の内にある客体的な物とかかわるあり方について、そうしたあり方は何ら一人一人に固有な仕方ではなく、誰が同じことをしても変わりないことであると述べている。誰が世界第一級の技術を持とうと、誰が首から下をまともに動かせず物や人と関わりえなかろうと、そんなことは人間存在にとって何ら重要な事柄ではない、「非本来的」なことだと述べている。これはニヒリズムに基づいた前期ハイデガー思想の解釈である。だいぶ乱暴な心身二元論を使っているのではないかとも思う。

無題

 

 どうせ全て独断だ。

 

   *

 

「勉強すると、キモくなる」とオタクのキモさとは近似している。

 

   *

 

 詩の製作が抜きがたく「製作」一般の概念に結び付いているヨーロッパ人にとって、poiesisの語は日本語の「詩」「うた」とは遠く隔たって感じられざるをえないだろうし、そうやってみられる世界のありさまは印欧語以外の…クルアーンや旧約の世界とは異なっているだろう。言語ごとに個別の真理なるものがあり、フランス語で語られた真理を直輸入することができないなら、日本語の真理を明るみに出さなければならない。

 

   *

 

 あらゆる宗教は人間を疎外する害毒である。アブラハムの神を信仰することは端的な不合理だが、では仏教徒はどうか。ミャンマーにおいてムスリムを虐殺していることを考えれば、およそ信に基づく共同体が他を疎外することは不可避なもののように思われる。

       L`homme en tant que l`homme, c`est l`atom, l`individu. これ以上分割できない或物であり、他と繋がることのない単子が人間だ。

 人間は端的に人間であるのみであり、他と結びつくということはない。無意味で無価値な生、何か他のものに紐づけられることの決してなく、あらゆる資本を蕩尽するに値しない私egoが尚生きてあり、そしてそれをこそ真に自ら肯定する以外に道はないし、さもなくば、その外部に劇烈な暴力を撒き散らす無数の共同体が林立するにとどまるだろう。 

 

   *

 

 NO GENOCIDE NO JUDE?

 

 NO!

 と言いたい。言いたいが……

 そう遠くない未来、ホロコーストを経験したユダヤ人のすべてが、歴史の終わりまでのあいだしばらく眠り、起きているユダヤ人のすべてがイスラエル建国ののちに生まれてきた時代が来るとき、ユダヤ性の本質に「虐殺する存在者」であることが刻み込まれはしないか。

 ユダヤ民族主義国家イスラエルによる、パレスチナのアラブ人に対する緩やかな虐殺が百年に渡って続くとき、ユダヤ人をホロコーストの犠牲者として表象し続けることがついに不可能になったとき、百年に渡って行われた暴力のすべてが、六芒星を掲げて行われたショアーだ。

死ぬのを拒んでいる言葉―保坂和志『未明の闘争』について―

 エマニュエル・レヴィナスは初期の論考『実存から実存者へ』の中でアンリ・ベルクソンに言及して次のように言っている。

 

あるメロディーを聴くとき、私たちはやはりその持続を全体的にたどっている。……メロディーの瞬間瞬間は、メロディーのなかで本質的につながっている持続にその生命を捧げているゆえにこそ実存している……メロディーは、ベルクソンが純粋持続の下敷きとした完全なモデルである。音楽の持続を要素に部分化することはできるし、その要素を数えることもできるということは異論の立てようもないだろう。しかし瞬間のひとつひとつはそこではものの数ではない。*1

 

 ベルクソンは『時間と自由』の中で、客観的世界の実在を括弧に入れた上で人間の意識にあらわれてくる表象全体を持続と名付けた。そこには精神が経験する時間も含まれているが、この時間は瞬間瞬間の堆積という形をとらずに、切れ目なしに過去にも未来にものびる連続体として理解される。

 

 ここでレヴィナスベルクソンの言う純粋持続をメロディー、わかりやすいものを挙げるならばヴァイオリンなどの弦楽器のメロディーに仮託している。持続、意識に直接与えられたもの、これはいっさいの切れ目なしに続くひとつづきであり、ストップウォッチやメスシリンダーによって分割可能な部分部分を持たない。メロディーについてもこれはあてはまる。もちろん録音された音源を断ち切って一秒ごとの音色をとりだすことはできる。しかしそれらはあくまでもメロディー全体から切り離された一部のひとつひとつであって、分割された一々がもととなったメロディーを構成する要素を完全に含んでいるということはない。メロディー全体とその部分は別々の身分を有している。全体は部分ではなく、部分は全体ではない。そしてメロディーの場合……繰り返すようだが……その瞬間瞬間はメロディー全体の内へ完全に溶けだしているのである。

 

 レヴィナスはかかる持続の概念を瞬間の概念と対比させる。瞬間、それはメロディー全体のひとつづきに対して、その中でメロディーが流れる時間を長さがゼロになるまで分割し、その長さを持たない時間およびその中に含まれるメロディーのいち部分を指す。時間はたしかに切れ目なしに連続しているが、同時に瞬間の積み重ねでもある 。引用中ではこれをベルクソンと同じく音楽を例に説明している。時間的な幅をまったく持たない一点である瞬間、その一つ一つは音楽的な旋律を構成するまさにそのことによって消え去ってしまう。音の一瞬一瞬はメロディーという全体に奉仕して死んでいく。これは特に管弦楽について想起すれば理解しやすいが、打楽器についても事情は同じである。打楽器の一拍も短いながら時間的な幅を持っているが、瞬間とは幅を持たない一点なのだから。

 

 幅を持たない一点……われわれはここでゼノンのパラドックスの一つ「飛んでいる矢は止まっている」を想起することができる。飛んでいる矢は一定の時間で一定の距離を飛ぶものである。しかるに時間を細分していくと、細分された時間で矢が飛ぶ距離も自然短くなる。こうして時間を無限小にまで細切れにしていくと、その無限小の時間の中で矢は微動だにすることがなくなる。その瞬間をいくら積み重ねたところで運動量は零をいくら足しても零であるのだから零だ。よって「飛んでいる矢は止まっている」……

 

 瞬間は、確かに存在するのである。しかしその瞬間瞬間は時間的幅が零であり、その時において矢は動くことがない。ここでは正当な権利を主張できるはずの瞬間が奇妙にもその存在を閑却されており、「ものの数ではな」く、いないも同然である。瞬間のひとつひとつは、メロディ-の流れの中で然るべき地位を全く有しておらず、すべてがメロディーの中に溶け込んでいる。レヴィナスは上の引用に続いて次のように書いている。

 

メロディーの瞬間瞬間は死ぬためだけにそこにある。*2

 

 ここまで読んできて、「なんだ、保坂和志の小説についての記事じゃないのか」と思った諸子、ちょっと待ってほしい。レヴィナスは死ぬためだけにそこにある瞬間についてだけこの初期論考で語ったわけではないし、彼が語ったもう一つの観念こそ、保坂和志の『未明の闘争』の文体の特長を過不足なく示すものであるのだ。

 

 保坂和志の長編小説『未明の闘争』は想起の記述のみによって成り立っている。語り手の現在から九年前をおおよその基準点に置いて「私」星川の見た夢や、端々の記憶、空想がないまぜになっている。各々の記述はある程度の幅を持っており、全体を総括するクライマックスを終盤に据えた構成をとらず、さしあたり無秩序に記述が並べられている。『未明の闘争』の言葉や一々のパラグラフ、諸回想は、それらの一つ一つから何らか高次の或物が導き出されるような性格を持っていない。諸回想は相互に独立しており、連続の中に全体の一部となってあるのではない。

 

 対照的なものとして、たとえばドストエフスキーの『罪と罰』であれば、主人公のラスコーリニコフと対立するのはポルフィーリイ、ルージン、スヴィドリガイロフであって、彼らとの対立からラスコーリニコフの思想や行動がいわば導出されてくる。老婆を殺害したラスコーリニコフは意図せぬ第二の殺人のために苦しみぬき、ラズミーヒンやソーニャを含めた周囲の人々とのかかわりを通して最終的な行動……自首……があらわれてくる。小説を構成する部分部分はいわば計算式の役割を担っている 。そのような計算式と解の関係は、『未明の闘争』の中には自然なかたちで見出すことができない。

 

 このようなありかた、『未明の闘争』中の諸断片の非相補性、一個の体系を構成することのない綜合不能性は、メロディーの中で死ぬためだけにそこにある瞬間のありかたとは対照的である。そしてレヴィナスはかかる特徴を有した音を次のように評している。

 

調子はずれの音は死ぬのを拒んでいる音だ。*3

 

 ソ音から低いレ音への滑らかな変遷の途中に不意に高いシ音が挿入されるとき、その高いシ音はメロディーの中で死ぬためだけにそこにあるという特徴をより少なく持っている。持っていないということができないのは、シ音もまた流れる音声である以上は時間的な長さを持ち、無限に瞬間まで分割可能だからである。しかしそれは「死ぬのを拒んでいる」。統一する全体に抗って、複数の瞬間が己の固有性を主張する。筋書きの流れの中で書かれた言葉が筋書きの流れに抗い、隣接する前後の流れを断ち切って、「私は然々のようにある」と浮き上がる。序盤を過ぎてから最後まで一貫して『未明の闘争』の言葉はおよそそのように書かれている。『未明の闘争』は、死ぬのを拒んでいる言葉で書かれている。

 

『未明の闘争』についても細部を捨象した何らか統一的な解釈をうち出すことは不可能ではないだろうが、それによって失われるものは非常に多い。そのように、失われるものが多いことが、保坂和志が『未明の闘争』において用いた文体の特長を示している。

 

 

 結局筆者は『未明の闘争』以来の保坂の小説をまだ読んでいない。『プレーンソング』から順に読んでいて、『未明の闘争』で終わっている。間の『カンバセイション・ピース』『その人の閾』と評論三部作も読んでいない。渋谷の紀伊国屋だったかに行って早く買い求めよう。2010年代のものはいくらか文庫があるはずだ。

*1:p. 61. エマニュエル・レヴィナス西谷修訳『実存から実存者へ』第3刷2012年、筑摩書房、中略筆者

*2:ibid.

*3:ibid.

Paedophil/iaについての所感ふたたび、その1

 内藤正典氏の新書を読んでそちらの感想を先に書こうと思っているのにまるで体力が足らない。文章を書くのにも体力が必要で、東浩紀の顔が今パッと浮かんだのだが、彼もまた多く文字を書いて飯を食う人間であり、その大いに文字を書いて暮らすということのバイタリティを思うと尊敬する気持ちになる。

 

 先日土屋恵一郎『正義論/自由論 寛容の時代へ』を読んで、まあ「寛容」という現代の教義を擁護しているだけといえばそうなのでその部分はあまり肌に合わなかったのだが、ベンサムとミルの自由に関する理論のくだりは以前から自分がペドフィルについてぼんやり考えてきたことについて非常に参考になった。なんとこいつ自由論の古典の双璧を読んでいない。

 ベンサムおよびミルが生きた当時のイギリスは苛烈な同性愛差別が国の法制にもいきわたっていた。同性愛が発覚しても刑事罰に問われなくなったのはようやく二人が鬼籍に入ったはるか未来の1967年のことである。両名存命中には同性愛の「合法化」などはるかな理想の出来事であったに違いないが、とにかくベンサムは同性愛について啓示で禁じられた食物を喫することに寛容なプロテスタント英国人が啓示で禁じられた性の快楽には苛烈な批判を加えることを論難している。同性愛者は「趣味の異端者」、偏食家に過ぎない。誰も偏食家を殺そうとは思わないだろう。然るに当時の英国では同性愛者に致命的な罰を与え、市民はひきまわされる同性愛者に犬猫の死骸や石ころを投げつけるという乱暴狼藉をはたらいている、これは不合理である。なぜ性という私的な領域に国家や共同体が入り込むのか……。

 ベンサムの弟子筋のミルは「他者被害の原則」をあげて同性愛そしてモルモン教徒の一夫多妻制を擁護している。個人あるいはある集団の行動について、他人ないしその外部からみて行動が愚かしく反動的なものにみえるとしても、その外部に危害をくわえることのないかぎりにおいては、それらの行為を成す自由を何人も妨げてはならない。土屋はエホバの証人モルモン教といった宗教問題の文脈でこの原則をひいているが、無論同性愛についてもこの原理は援用できる。先日五十年連れ添った二人の男性がパートナーシップ契約を結ぶ事を決断したとかいうニュースを目にしたが、この契約の内実には当事者たった二人しかかかわっていない。単純にパートナーシップを結ぶという契約それ自体は他人を害さないものである。よって二人の契約は何者に妨げられることもなしに恙なく結ばれるというわけである。また、愛しあう二人がいる、いや三人でも四人でもいい、夜になって閨に入り睦みあう、あるのは愛と快楽である。その行為は寝床の外にいる人々をいささかも害することはない。そしてそのようであるのならば……どうして声高に非難し、罵声を浴びせ、あまつさえ法の名の下に命を奪うことができようか。

 

 自分はかねてから同性愛と小児性愛を同じく趣味の問題として考え、数的少数者であるという点から両者を同じ類にふりわけて、同性愛者に対する悪口雑言を非難する立場がありながら小児性愛者に対しては平然と人格否定が為される現状に対して不満を抱いていた。

 この同性愛者ないし小児性愛者に対する非難は、

 ①同性愛の行為に対する非難であるのか、②同性愛者であるto be homophilという存在に対する非難であるのか、

 ③小児性愛の行為に対する非難であるのか、④小児性愛者であるto be paedophilという存在に対する非難であるのか、

 これらが非難する諸個人の間で不統一であるだろうし、確実にこれと同定できない場合も多くあるだろう。

 小児性愛を非難し、ときに小児性愛者の小児性愛者であるという存在を非難する人間は、とっかかりとして③を非難するところからはじめる印象がある。上でおおよそふれたベンサムおよびミルによる議論を参照しながら、以下で小児性愛の行為とはいかなるものか検討する。

 

その2に続く

覚え書(求・メディア表象理論の種本)

 もう去年のことになるが小児性愛についてブログで書いた。その後インターネットで見つけたり色々した話題の中で面白いものがあったのでそれについて書く。

 

 これはツイッターでもうふた月も前に目にしたもので、出典は今や電子の海の彼方に消えてしまって探し出すことができないものだが、重要な指摘がそこではなされていた。

 小児性愛性的少数者というカテゴリーに含められ、このカテゴリーには長年制度上の差別の対象であった同性愛も含まれる。そこで、同性愛者への差別的な嫌悪の感情を糾弾する動きが起こる中、小児性愛者への差別的な嫌悪の感情についても同様に非難されるべきではないかという提言が可能となるだろう(性的少数者である同性愛者に対してなされるべき事柄が、同じ性的少数者である小児性愛者に対してなされるべきでないとしたら、それは不合理である)が、ツイッター上のその投稿はこうした提言を強く否定していた。

 投稿者によれば、小児性愛は厳密には同性愛とは別のカテゴリーに分類されるべき性愛の形態であるという。極めて大雑把に言って、同性愛は、性別スペクトラム(という語を自分は聞き覚えが幾度となくあるのだが著者名の印字されたちゃんとした出典で学んだわけではない。よい種本があれば御教授願いたい)において男女のうちの同性にカテゴライズされる人間のあいだに生じる愛である。同性愛は性別にかかわる少数者である。

 しかるに小児性愛は性別ではなく、読んで字のごとく小児に対する性愛である小児性愛は、その主体の年齢や性別の如何にかかわりなく、対象の年齢が一定未満である場合にそういわれる、年齢にかかわる少数者である。

 重要なのは、同性愛と小児性愛が一人の人間の内に共在しうるということである。同性愛者であると同時に異性愛者であると言うことはできない。そのような人間は代わって両性愛者であると言われるか、そもそも語義矛盾であるとして命題が退けられる。少なくともナイーブな視点でいえば、同性愛と異性愛は一人の人間の内に共在しえない、互いに排斥しあう概念である。

 小児性愛をもっぱら小児にのみ性的興奮を覚える人間として定義した場合、小児性愛者であると同時に(次のような言葉は普段用いられないが、小児性愛者の対概念として)成人性愛者であるということはできない、これは端的に偽である。単純に小児に性的興奮を覚える人間という程度の意味合いで小児性愛という語を定義しても、小児性愛者であると同時に成人性愛者であるということは、そのような集合を指すのに特殊な名辞を発明する必要のあることがらであるだろう。

 中心的であるとされる異性愛者に対して他者化/周縁化(この表記のエクリチュールが大変気に食わない)された同性愛者と、同じく周縁化された小児性愛者は、どちらも性的少数者にカテゴライズされるが、両者を少数者として分類する由縁は異なっている。同性愛と小児性愛は、性別と年齢という全く異なる観点から構成された少数者なのである。

 以上から、同性愛者の問題について適用される施策が常に小児性愛者の問題についても適用されねばならないという主張は真ではないという主張が導き出せる。

 

 くだんの投稿者は合意形成能力の有無についても言及しているがここでは贅言を要しない。

 しかし自分は虚無的平等主義者である。やはり徹底して人間相互の差異を無化していくことによって人間の平等を達成したい。端的に言って、性愛の方向性にもとづいて人間相互の待遇に何等か差別を設けることは労多く益少ない行為である。

小児性愛者である事実を公表すること自体がそれを訊いた小児に対する性暴力に等しい」という主張もおぼろげに聞き及んでいる。このあたりの表象の理論についてはいろいろの議論があるのだろうが、やはりここでは扱えない。しかし、然々の「恐怖を覚える」感覚と、そこから進んで「侮辱的な言葉で恐怖を表明することは許される」と判断する行為の間には、何か飛躍を見ないではいられない。、「しかし、……いられない」という感覚を自分は抱いているわけだが、これが事実どこから来たものか由来をぱっと思い出せない。

文フリ雑感・『rhetorica #04 特集:棲家』

 先日の11月25日(日)東京物流センター開催の文学フリマ東京では色々書籍を購入した次第で、その一々についてはこれからコメントしていくかもしれないけれどもともかく、ゼロ年代批評を集めたともっぱらの(?)『rhetorica #04 特集:棲家』をかれこれ一週間かけて読み終えたので、そのうちいくつかの稿について、ここに備忘録風に雑感を記したい所存…………

 

   * 

 

「批評/デザイン/アカデミズム」章からは、「乗るべきはバイクより批評だった」……宇野常寛へのの言及。地方のマイルドヤンキーが「批評」「学問」に参入する入口として『ゼロ年代の想像力』(以下『ゼロ年代』)がよきとっかかりとなったという小川の回想はある種のpopular Philosophとしての宇野の側面を想起させる。

 

ゼロ年代』は自分が読んだ当時世にも珍しい「制作陣以外による仮面ライダー論」としての側面もあったように記憶していて、当然宇宙船他の特撮雑誌や年一で発行されるムックを覗けば制作陣による裏話やらを載せた対談はいくらでもあるけれども、そうではなく、あくまでも外部から、外部の視点から、何であれある種の方法論を用いて作品を分析するという書物は、川崎の住宅街というマイルドヤンキーのねじろで育った自分には空前のもので(だから多分小川と自分は境遇において類似点があるのかもわからないが、あまりおこがましい口は慎むとして)、大変にありがたがっていた。

 ある知人は宇野を「論文としてまっとうな文章が書けていない、論証も厳密でなく、形式面でもぶつ切りで相互に関連がない」と酷評していた。形式に関していえば、(確固たる物証がないので記憶で物を書くことになるが、)元は雑誌やメールマガジンに連載していたものをひとまとめの本にしたもので、その連載もそれぞれの回でひとつひとつしっかり終わるものになっていたはずだから、論考間の論証の流れの一体感のなさのようなものは、あくまでそのような形態から出てくるものだろう。

 

 宇野が論じる仮面ライダー論の内容についてここで詳しくはふれない。それらはともかくとして、「仮面ライダー論」の難しさということになると、第一に平成仮面ライダーは基本的に一年間放送され、作品全体の長さは約20時間(24分×50話=1200分)に及ぶのだが、これだけ長くなると脚本にもある種の「遊び」が入り交じってくるし、特に「平成初期」といわれるアギト~555は撮影の現場での「ライブ感」重視の姿勢から偶然的な決定がこれまた介入する、一貫性の担保というものが難しい。結果的にこれこれのものが見えるとはいえるだろうが、論じる側としても雑駁なものになることが多少なりとも避けられなくなってしまう。一本で完結する映画やあるいは小説のようにはいかないことは確かである。少なくとも、それらと全く同じ方法論を用いる事は出来ないだろう。

 

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 次ぐ「ミステリー/世界/SF」章は対談・論考の形に「ゼロ年代」を凝縮したような内容が続く。前半の対談「太字遣い師たち――『異セカイ系』を巡る、名倉編”メタパラ”インタビュー」…… 新しいものというのは不可避に奇異の目でみられるもので、宮崎勉事件に端を発する犯罪者予備軍としての「おたく」文化、2ちゃんねる以来のネットの「アンダーグラウンド」文化といった、「ゼロ年代的想像力」の苗床ともいうべき二つの文化は、秋葉原歩行者天国での集団「ハレ晴レユカイ」ダンスや定期的に行われる「祭り」といった悪質な素行も目立った一方、やはりきわだって危険視されていた感も否めるものではないが、とかくそれらは語られる対象として……ともすれば「ゼロ年代」の批評家にとってさえも……もっぱら語られる対象として存在している色彩が強かったように思われる。所詮ドクサである。それはともかく、そのような「ゼロ年代」文化を摂取し続けてきた世代が年齢を重ね、実作面で出来のよいものを書けるほどに成熟してきたことで、「ゼロ年代的想像力」が主体となってその想像力の産物を世に問う段階に達したともいえる。

 もう一つの対談「伊藤計劃連続体――一〇年代日本SFのワンシーン」……伊藤計劃ブーム当時に比べると今現在SFがサブカルチャーにあってそれほど力を持っているかちょっと測りがたい。しかしファンタジーが勢いづいている側面はかなりあるようにも思う(殊ライトノベルにおける異世界転生ものの隆盛がその印象に大きくかかわっていることは否めない)。『Re:ゼロから始める異世界生活』はじめ転生ものの流行ぶりは目を見張るものがある。『異世界食堂』『異世界語入門~異世界転生したけど日本語が通じなかった~』なんて変わり種まで出てくる。SF的舞台装置を有する『ソードアート・オンライン』シリーズにしたところで冒険の舞台となる仮想世界の中身は基本的に「剣と魔法の世界」であって、広義のファンタジー小説であろう。グレッグイーガンのようなゴリゴリのポストヒューマンSFも邦訳されてはいるが、「ゼロ年代」の系譜としてみたとき両者の連関は薄い。

 

 

「侵犯的リアリズムと思考する原形質――岩明均寄生獣』について」は『寄生獣』以外の岩明作品も参照しながら彼のコマ割り、各表情の用い方、ガジェット、等々を分析するわけだが、内容もさることながら、期せずしてか文体が面白く感じられた。全体としてそう長くない・短い文章が呼吸を置かず詰まっており、擬音語で表すならコロコロカクカクした様子を呈している。

 

(「少女、ノーフューチャー――桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論」は、色々いえることはあるだろうが、自分は『砂糖菓子……』を未読であり、後日この論考をもう一度読み、『砂糖菓子……』を読んで、それから改めてこの論考を見返すというかたちで戻って来たい。斜体にしようとして失敗するし、太字にして戻そうかと思ってみても戻せないし、このままにしておく

 

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 以下「親密圏/非日常/アジール」。

「自閉と合宿――避暑(仮)について」は何よりレイアウトが良い。他の部分は基本的に文字を中心に組んでいたが、ここでは画像データと文字データが自由に組み合わされて、前者が後者を圧迫している感さえ見受けられる。

 詩の「日曜憂愁」もいい。いいというのはやはり印刷の凝り方で、同日購入したpabulumの『一人称、複数、断片、未完』に掲載された諸断片を思い起こさせもするつくりをしている。

 

「「ストリップ・ショー」批判序説――舞踏、エロス、そして運動」……道玄坂にあるストリップショー劇場(と、いえばいいのか)は自分も二度三度かそれ以上前を通ったことがあるのだけれど、結局これまで一度として実際のショーを目にしたことはない。少し前の左に折れる道を上ってその先にある串焼きやもつ煮の美味しい居酒屋に行ってしまった。怖気付いたのだろう。世紀末に生まれ新世紀に育った人間の一人の例としてこれを見ると、どうにも昭和の遺物のような、「今まで生き残っているもの」という印象が感じられていた。「ストリップ・ショーは復活する。」この論考は清新である。口ぶりは足取り軽く前口上耳を揃えて語るのは渋谷道玄坂から「あなた」つまりこの論考の読者を「道頓堀劇場」の中へ中へとひいていく道筋。場内入ってすぐの客連がみせる雑然としたさまはさながら街の片隅にある公園かホテルのロビーか電信柱か、はたまた取り壊しの決まった人気のない木造校舎か、セミ・パブリック・スペースとでもいうべき、いかにもこれから「事件」が起こりそうな様相を呈している。何を言おうがここまで来てしまった、「さあ、その扉を開けて――」と言われれば開けないわけにはいかれない。ショーの始まりだ。そこに続くのは門外漢にもよくわかるストリップ・ショーの構成解説とその逐一の要素の分析である。身体論や、これは映像メディア論といえばよいのか、映画学その他を駆使して細やかかつダイナミックに解剖されるストリップ・ショー。三曲目、せりあがる舞台の上で大きく脚を上げるダンサーとそれを見る観客が同時にエクスタシーに達する。さながら自己と他が一体になったかのような共振! 人間の全身が光の中に包み覆われ、頭の先から爪先まで、陰部でさえも悉光り輝く! 本来人間の脚や腕、胸や腹、背はともかく、陰部とそして顔というのは単独で切り取って見られた時大変に醜いという性質を持っている(と、少なくとも私は思っているのだが……たとえば進学塾・武田塾の広告に用いられるNON STYLE二人がみせる、つくられたカメラ目線の驚愕の表情……)、全面的な皮膚の覆いが部分的に崩れ、無防備な内部や、薄い肌や粘膜から見える肉の色彩、深く切れ込んだ暗い陰が、不完全性、醜悪さを催させるのだろう。それが燦然と光るという。くまなき明るみに照らしだされて陰は悉消え去り、美しいものとしてストリップ・ダンサーは総身顕現する。ハイデガーではないが、明るみに出されたもの=真理が美しいことはオイラーの等式よろしくあきらかなことでもある。

 こうして「序説」は編まれた。次は順当に「試論」か、飛んで「本論」か、さもなきゃ「原理」か「省察」か。いずれにせよ、また誰の手によるにせよ、《次》が『来る』ことは間違いない。

 

「10月9日」……読む楽しみ、le plaisir du texteというものをよく読者に感じさせる作物。繰り返し繰り返し再説される同じようなことどもの、その反復が心地よい。いいクズっぷり、いいノロケっぷりを感じる。波打つような反復は中上『枯木灘』を思い出した。

 

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 どこか対談で言っていたけれども装丁にこだわらない批評雑誌を反面教師にrhetoricaはたいへん装丁にこだわっており、銀地に赤の上から金地に赤のカバーをかける外観は大変人目を引きまた見目麗しい。金のカバーの図の形状はマーブリングにも見えるが何だろう。表紙見開きに目次と扉絵を付し、2ページには赤地に黒い明朝風フォントで諸テーマが並んで、中央下寄りの「批評/デザイン/アカデミズム」が左に線分を伴って白く変じている……。

 ブース前にて「一〇年代も終わるというのにゼロ年代特集ですか」などと口走ったところ、一〇年代特集が#04に前後して現在進行中であり、そちらは後日改めて発行される由を聞くことができた。90年代の遺産を引いてやってきたようなゼロ年代セカイ系足すことの学園異能バトルのゼロ年代が終わってもうすぐ十年たつ。終わってこっちの十年間の一〇年代は、ゼロの使い魔の系譜を引いて異世界ファンタジーと、何の時代として総括されるだろう。