文フリ雑感・『rhetorica #04 特集:棲家』

 先日の11月25日(日)東京物流センター開催の文学フリマ東京では色々書籍を購入した次第で、その一々についてはこれからコメントしていくかもしれないけれどもともかく、ゼロ年代批評を集めたともっぱらの(?)『rhetorica #04 特集:棲家』をかれこれ一週間かけて読み終えたので、そのうちいくつかの稿について、ここに備忘録風に雑感を記したい所存…………

 

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「批評/デザイン/アカデミズム」章からは、「乗るべきはバイクより批評だった」……宇野常寛へのの言及。地方のマイルドヤンキーが「批評」「学問」に参入する入口として『ゼロ年代の想像力』(以下『ゼロ年代』)がよきとっかかりとなったという小川の回想はある種のpopular Philosophとしての宇野の側面を想起させる。

 

ゼロ年代』は自分が読んだ当時世にも珍しい「制作陣以外による仮面ライダー論」としての側面もあったように記憶していて、当然宇宙船他の特撮雑誌や年一で発行されるムックを覗けば制作陣による裏話やらを載せた対談はいくらでもあるけれども、そうではなく、あくまでも外部から、外部の視点から、何であれある種の方法論を用いて作品を分析するという書物は、川崎の住宅街というマイルドヤンキーのねじろで育った自分には空前のもので(だから多分小川と自分は境遇において類似点があるのかもわからないが、あまりおこがましい口は慎むとして)、大変にありがたがっていた。

 ある知人は宇野を「論文としてまっとうな文章が書けていない、論証も厳密でなく、形式面でもぶつ切りで相互に関連がない」と酷評していた。形式に関していえば、(確固たる物証がないので記憶で物を書くことになるが、)元は雑誌やメールマガジンに連載していたものをひとまとめの本にしたもので、その連載もそれぞれの回でひとつひとつしっかり終わるものになっていたはずだから、論考間の論証の流れの一体感のなさのようなものは、あくまでそのような形態から出てくるものだろう。

 

 宇野が論じる仮面ライダー論の内容についてここで詳しくはふれない。それらはともかくとして、「仮面ライダー論」の難しさということになると、第一に平成仮面ライダーは基本的に一年間放送され、作品全体の長さは約20時間(24分×50話=1200分)に及ぶのだが、これだけ長くなると脚本にもある種の「遊び」が入り交じってくるし、特に「平成初期」といわれるアギト~555は撮影の現場での「ライブ感」重視の姿勢から偶然的な決定がこれまた介入する、一貫性の担保というものが難しい。結果的にこれこれのものが見えるとはいえるだろうが、論じる側としても雑駁なものになることが多少なりとも避けられなくなってしまう。一本で完結する映画やあるいは小説のようにはいかないことは確かである。少なくとも、それらと全く同じ方法論を用いる事は出来ないだろう。

 

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 次ぐ「ミステリー/世界/SF」章は対談・論考の形に「ゼロ年代」を凝縮したような内容が続く。前半の対談「太字遣い師たち――『異セカイ系』を巡る、名倉編”メタパラ”インタビュー」…… 新しいものというのは不可避に奇異の目でみられるもので、宮崎勉事件に端を発する犯罪者予備軍としての「おたく」文化、2ちゃんねる以来のネットの「アンダーグラウンド」文化といった、「ゼロ年代的想像力」の苗床ともいうべき二つの文化は、秋葉原歩行者天国での集団「ハレ晴レユカイ」ダンスや定期的に行われる「祭り」といった悪質な素行も目立った一方、やはりきわだって危険視されていた感も否めるものではないが、とかくそれらは語られる対象として……ともすれば「ゼロ年代」の批評家にとってさえも……もっぱら語られる対象として存在している色彩が強かったように思われる。所詮ドクサである。それはともかく、そのような「ゼロ年代」文化を摂取し続けてきた世代が年齢を重ね、実作面で出来のよいものを書けるほどに成熟してきたことで、「ゼロ年代的想像力」が主体となってその想像力の産物を世に問う段階に達したともいえる。

 もう一つの対談「伊藤計劃連続体――一〇年代日本SFのワンシーン」……伊藤計劃ブーム当時に比べると今現在SFがサブカルチャーにあってそれほど力を持っているかちょっと測りがたい。しかしファンタジーが勢いづいている側面はかなりあるようにも思う(殊ライトノベルにおける異世界転生ものの隆盛がその印象に大きくかかわっていることは否めない)。『Re:ゼロから始める異世界生活』はじめ転生ものの流行ぶりは目を見張るものがある。『異世界食堂』『異世界語入門~異世界転生したけど日本語が通じなかった~』なんて変わり種まで出てくる。SF的舞台装置を有する『ソードアート・オンライン』シリーズにしたところで冒険の舞台となる仮想世界の中身は基本的に「剣と魔法の世界」であって、広義のファンタジー小説であろう。グレッグイーガンのようなゴリゴリのポストヒューマンSFも邦訳されてはいるが、「ゼロ年代」の系譜としてみたとき両者の連関は薄い。

 

 

「侵犯的リアリズムと思考する原形質――岩明均寄生獣』について」は『寄生獣』以外の岩明作品も参照しながら彼のコマ割り、各表情の用い方、ガジェット、等々を分析するわけだが、内容もさることながら、期せずしてか文体が面白く感じられた。全体としてそう長くない・短い文章が呼吸を置かず詰まっており、擬音語で表すならコロコロカクカクした様子を呈している。

 

(「少女、ノーフューチャー――桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論」は、色々いえることはあるだろうが、自分は『砂糖菓子……』を未読であり、後日この論考をもう一度読み、『砂糖菓子……』を読んで、それから改めてこの論考を見返すというかたちで戻って来たい。斜体にしようとして失敗するし、太字にして戻そうかと思ってみても戻せないし、このままにしておく

 

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 以下「親密圏/非日常/アジール」。

「自閉と合宿――避暑(仮)について」は何よりレイアウトが良い。他の部分は基本的に文字を中心に組んでいたが、ここでは画像データと文字データが自由に組み合わされて、前者が後者を圧迫している感さえ見受けられる。

 詩の「日曜憂愁」もいい。いいというのはやはり印刷の凝り方で、同日購入したpabulumの『一人称、複数、断片、未完』に掲載された諸断片を思い起こさせもするつくりをしている。

 

「「ストリップ・ショー」批判序説――舞踏、エロス、そして運動」……道玄坂にあるストリップショー劇場(と、いえばいいのか)は自分も二度三度かそれ以上前を通ったことがあるのだけれど、結局これまで一度として実際のショーを目にしたことはない。少し前の左に折れる道を上ってその先にある串焼きやもつ煮の美味しい居酒屋に行ってしまった。怖気付いたのだろう。世紀末に生まれ新世紀に育った人間の一人の例としてこれを見ると、どうにも昭和の遺物のような、「今まで生き残っているもの」という印象が感じられていた。「ストリップ・ショーは復活する。」この論考は清新である。口ぶりは足取り軽く前口上耳を揃えて語るのは渋谷道玄坂から「あなた」つまりこの論考の読者を「道頓堀劇場」の中へ中へとひいていく道筋。場内入ってすぐの客連がみせる雑然としたさまはさながら街の片隅にある公園かホテルのロビーか電信柱か、はたまた取り壊しの決まった人気のない木造校舎か、セミ・パブリック・スペースとでもいうべき、いかにもこれから「事件」が起こりそうな様相を呈している。何を言おうがここまで来てしまった、「さあ、その扉を開けて――」と言われれば開けないわけにはいかれない。ショーの始まりだ。そこに続くのは門外漢にもよくわかるストリップ・ショーの構成解説とその逐一の要素の分析である。身体論や、これは映像メディア論といえばよいのか、映画学その他を駆使して細やかかつダイナミックに解剖されるストリップ・ショー。三曲目、せりあがる舞台の上で大きく脚を上げるダンサーとそれを見る観客が同時にエクスタシーに達する。さながら自己と他が一体になったかのような共振! 人間の全身が光の中に包み覆われ、頭の先から爪先まで、陰部でさえも悉光り輝く! 本来人間の脚や腕、胸や腹、背はともかく、陰部とそして顔というのは単独で切り取って見られた時大変に醜いという性質を持っている(と、少なくとも私は思っているのだが……たとえば進学塾・武田塾の広告に用いられるNON STYLE二人がみせる、つくられたカメラ目線の驚愕の表情……)、全面的な皮膚の覆いが部分的に崩れ、無防備な内部や、薄い肌や粘膜から見える肉の色彩、深く切れ込んだ暗い陰が、不完全性、醜悪さを催させるのだろう。それが燦然と光るという。くまなき明るみに照らしだされて陰は悉消え去り、美しいものとしてストリップ・ダンサーは総身顕現する。ハイデガーではないが、明るみに出されたもの=真理が美しいことはオイラーの等式よろしくあきらかなことでもある。

 こうして「序説」は編まれた。次は順当に「試論」か、飛んで「本論」か、さもなきゃ「原理」か「省察」か。いずれにせよ、また誰の手によるにせよ、《次》が『来る』ことは間違いない。

 

「10月9日」……読む楽しみ、le plaisir du texteというものをよく読者に感じさせる作物。繰り返し繰り返し再説される同じようなことどもの、その反復が心地よい。いいクズっぷり、いいノロケっぷりを感じる。波打つような反復は中上『枯木灘』を思い出した。

 

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 どこか対談で言っていたけれども装丁にこだわらない批評雑誌を反面教師にrhetoricaはたいへん装丁にこだわっており、銀地に赤の上から金地に赤のカバーをかける外観は大変人目を引きまた見目麗しい。金のカバーの図の形状はマーブリングにも見えるが何だろう。表紙見開きに目次と扉絵を付し、2ページには赤地に黒い明朝風フォントで諸テーマが並んで、中央下寄りの「批評/デザイン/アカデミズム」が左に線分を伴って白く変じている……。

 ブース前にて「一〇年代も終わるというのにゼロ年代特集ですか」などと口走ったところ、一〇年代特集が#04に前後して現在進行中であり、そちらは後日改めて発行される由を聞くことができた。90年代の遺産を引いてやってきたようなゼロ年代セカイ系足すことの学園異能バトルのゼロ年代が終わってもうすぐ十年たつ。終わってこっちの十年間の一〇年代は、ゼロの使い魔の系譜を引いて異世界ファンタジーと、何の時代として総括されるだろう。